先日、書籍「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏の来日シンポジウム及び東大講義に参加をしてきた。
その際に感じたこと。それは、ピケティ氏が現代のニヒリズムと戦っているということだった。
データ及びエビデンスを徹底収集して論を立てていくその膨大な作業は、もちろん素晴らしいのだが、「一体なんのためにやるのか?」という熱い思いが、この研究には確かに存在していた。それは、書籍の行間からにじみ出ており、来日したピケティ氏の五体からもほとばしっていた。
ニヒリズムとは、”諦め”を深層に抱え、あらゆるものを斜に構えて見る常習性を生み出す。定義として、Wikipediaにはこうある。
ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism、独: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。
引用元: ニヒリズム – Wikipedia.
さて、客観的であれ、論理的であれという言葉。経済社会の中で、よく投げかけられるこの言葉の裏側には、常に、ニヒリズムの萌芽が隠れている。
主観を排すということは、その感情や情熱、直感を排すことにもつながり、結果的に重要な”共感のエネルギー”は排除される傾向を強める。
「いや、自分はどこまでも主観的に生きている。客観視しすぎることはいない」という場合においても、その主観は、本当に”能動的主観”であるだるうか。それは”受動的主観”ではないか、と問うてみる必要があるように思う。
その主観と呼ばれるものは、消費経済の中で、ひたすらに感覚的な刺激を与えられていく時に起こる反応ではないか。例えば、ゲームに没頭するその状態は、ゲームから与えられる刺激をひたすらに受けていくという意味において、受動的である。
消費社会は、この受動的主観を強いてくるシステムに覆われている。もちろん、それすらもうまく利用して行くという姿勢があれば問題はないのだろうが、何も考えさせず、人間を”ただ反応する機械”のように貶めようとする仕掛けも多い。
このシステムの中で主観的(受動的)に生きていると思っていた結果、いつの間にやら絶望の上でダンスを踊り、何をやっても、現実は変わらない…というニヒリズムの餌食になってしまうことが少なくないのだ。
ピケティの”正味財産に対しても毎年税金を取る。しかもそれにも累進課税を導入していくべき”という主張に対しても、そんなことはできるわけないじゃないか…という冷めた否認が無意識に起こりがちだ。しかし、そんなネガティブな反応に対して、パネラーの1人であったOECD事務次長・玉木林太郎氏は、「今、その議論を非現実的だと言って、止めるべきではない」と強く主張した。
暴力ではなく、どこまでも対話で挑む。その挑戦は、武力によって、相手を打ちのめすよりも何十倍も忍耐のいる作業である。しかし、この作業を地道に積み重ねるしか、この21世紀の前進はない。そんな信念が、柔和なピケティの言葉からにじみ出ているように感じたのだった。
誰もが、このニヒリズムを突破し、あらゆる差異を超えた対話を積み重ねながら、より良い社会の進化を目指して進んでいきたいものである。