どこからその結論が発露したのか?あらゆる場面において、そこまで観る必要がある。
頭から出てきた知恵なのか?腹から出てきた知恵なのか?そこが問題なのだ。
「行く」と決めた場合、それは「何のため?」、その問いでおおよそ、その結論がどこから出てきたものなのか、分かるものだ。
人間生活の中で、誰もが基本は自分のために動く。それは当然のことだ。しかし、今一歩それが何のためか?を深堀りする中で、その言動に体重が乗る。
人間、自分だけのためよりも、人のため、社会のためという大義と責任がのしかかった時に、本当の底力が発揮される。言葉としては同じ結論だったとしても、そこからの行動レベルで質が全く変化するのだ。
単なる評論は簡単だ。表層をうまく編集し、自分が都合の良いように考えることもまた然りである。しかし、巌のような現実はそう甘くはない。リアルはバーチャルのようにすいすいとは動かない。
同じ植物の種子であったとしても、その品質は全くことなる。それと同じように、結論は同じでも、そこから起こる「長期の結果」は、その種子が「何のためにどこから発露したのか?」で全く変わってくる。
つまり、結論が導き出されたプロセスによって、”長期の現実の質”が変化する。この差は、表面からは見えない。また、紙一重の差ようにさえ見える。しかしその一念の差は、長期において天地雲泥の差を生む。一日一日は分からなくても、1年見るとそれは明らかだ。それはまるで、ゆっくり成長しゆく木々のようであり、そこには優雅ささえ漂う。
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