教養とは、矛盾の中に身を置き、ギリギリと圧力がかかる中で醸成された精神が「あらゆる相対的ものごとを瞬間的に最良な関係性に導く」ためのものであろう。
決まって私たちには、その最良性がなかなか見えない。その関係性を演繹的に導くことを阻止する時代の思想は、一言で言えば、「無邪気な万能感」である。これが、社会をより良い関係性を導こうとする判断に、もやをかける。
そして、知らないうちに、この無邪気な万能性は、起業家1人の性分ではなく、時代が支持するべき哲学のように刷り込まれてきている。これこそが現代の経済社会を動かす思想である。
そこには、例えば「起業することのみが正しい人生だ」というシンプルで危ういトリックも眠っている。そんなことは、当然本質的に分からない。その人自身の特性と、その状況によるのだ。
そういった浅はかな発信を私たちは、これまでも天を仰いで反省してきた。思い返せば、それはまさにリーマンショック、そして、3.11東日本大震災によって、私たちは粛然と襟を正した。
しかし、私たちが見つめたこれらの現実は、この無邪気な万能感と大企業のコラボプロジェクト、そしてスタートアップの景気のいい話題が絡み合うことで、かき消されていく。
悲しみを経験した数だけ、人のことも社会のことも分かるようになる。病により死を宣告され、毎日の日の光が眩しく有り難く映ることを経験した人の言葉の重みを、心に響かせ続けなければならない。
時代の過渡期である。それならば尚一層「人はとしをとってようやく、若かりし頃に何が起きていたのかを知る」というゲーテの言葉を深く抱きながら、あらゆる物事を最良な関係性に導く努力を積み重ねていかなければならない。