意味の追求。それは、現代を生きる人達の強烈な願望であり、時代の底流に流れている無意識的な心理状態とも言えるのではないか。
大河の流れから、無数の細かな支流が分岐していく現代。この社会の有様には、意味の追求が常時伴い、その営みは、人間のアイディティ崩壊を支える杖となっている。
小説に単なる主題や、大きな意味だけを問うても無意味であるように、その流れと展開の中で、どのように意味と意味とが共鳴するのかというところにこそ、重要な問いが眠っている。
社会は矛盾だらけである。人生は、変転極まりない条件的変化の連続である。その変化の荒波を進む船のオールとして役に立つものが、意味の追求であろう。
しかし、今大切なことは、そこに意味を問うのと同時に、時にその意味から離れてみる柔軟性であり、離れた時に、見えてきてしまう新たな意味と過去の意味との共鳴の感覚だ。
誠実に生きていく中で、時に、その意味が全く見えなくなることがある。しかし、その時には、足を止めるのではなく、その意味を追求する姿勢から少し離れてみることだ。もうその時は、身体的な意識のみを働かせ、ただただ無意味に感じる時の流れの中で精神に圧力をかけていくのだ。
炭素は、強烈な圧力の中で、ダイヤモンドへと進化する。
その中で、意図せず生まれてきてしまう新たな選択肢とその意味は、これまでとは全く違ったものであるかもしれない。しかし、過去自身が見つめていた意味と、深い所で共鳴していることにも気付くだろう。その光の中にこそ、次のステップへの重要な鍵が眠っている。
社会の過渡期は、一人一人の人生の過渡期でもある。そんな中で、意味と無意味と、意味同士の共鳴が、自身の人生を新たなステップへと導いてくれるはずだ。